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久しぶりに思い出の1作をプレイすると、何かと当時の自分の思いとの違いや価値観の変化を感じる。
今日も低レベルプレイを続けているFF6の話となる。
で、今回の話というのはこのシドの生死。
どういうイベントなのかと言うと、FF6は世界が崩壊する。

字だけだけだとインパクトあるが実際当時のプレイ経験としてもインパクトがあった。まぁそれは置いといて、崩壊後は仲間達は生死不明となり、操作キャラの1人セリスだけになってしまう。

そのセリスを崩壊後に助けたのはFFお馴染みシド。FFのシドの中ではやったことが冷静に考えるとまぁまぁ悪辣な方のシドなのだが、ここで彼と擬似家族的な関係性になる。

しかし、シドは世界崩壊の影響で衰弱、寝たきり、そこでセリスは近くの海から魚を食わせる…というのがこのイベントの流れだ。

ちなみに普通の魚が一番えげつないダメージを与えるのでもある意味有名。

この崩壊した世界で弱った魚は環境適応出来なかった魚で元気な魚は環境に負けなかった魚でそれぞれは崩壊前由来の魚。普通の魚は環境適応した魚だから逆にやばかったのかも…とか今となっては思ったりする。
この魚によるタンパク質とカルシウムによって選ぶのがシドの生死。
具体的に言うといい魚を食わせるとシドは回復、それ以外だとシドは死亡という。
魚の力、タンパク質の必要性、カルシウムの偉大さを知るとても勉強になるイベントなのだ。
しかしこの生死による結果の展開の違いで人は悩む。シドを生かすというのは人道的、そして気持ち的には何か満足する。だけどその後の展開はとてもあっさりとした物になる。

シドがこのように病弱の体に鞭打ち1人毎日夜なべをしていたイカダで仲間を探して旅立ちなって感じ、つまり風情がない!


ちなみに仲間連れ帰っても特に反応ないのも寂しい…
それとは逆にシドが死んでしまうとその後はドラマチックだ。シドは病に倒れセリスは天涯孤独に。

誰もいない島で独りとなったセリスは希望を失い身投げを決意し崖から飛び降りてしまう。

しかしそれでも生きていて再び島に流されたセリスの目の前には誰かに治療されたと思われる1羽の鳥が寄り添っていた。

その治療に使われていたのは仲間であり想い人であるロックのバンダナ。それを見た時にこの島の外にはまだ仲間が生きているかもしれない。

失いかけた希望を取り戻し、生存ルート同様にシドが病を押して遺したイカダに乗りセリスは単身で崩壊した世界の外へと旅立つ…仲間を求めて。

うーん、ドラマチック。そして再び絶望の中で希望を見出して奮起して旅立つ理由としても説得力に溢れている。
このFF6、何かとは二者択一を迫るゲームだが、このイベントもそれに漏れない。
人を生かすことで気持ち的には何一つ後悔しない道を用意されているがイベントはあっさり。逆に後を引くような選択肢を選ぶとこのようにドラマチックになる。報酬などもなくただ気持ちの問題でしかないのに、いや、だからこそこの選択には悩まされる。
それは物語としての整合性や説得力を得られるドラマチックさか。それとも少しの流れの説得力なんか無視してでも救いの選択肢を取ったことに波の少ない展開か。いっそ報酬でもあれば選ぶ理由になるのにそれをさせないのがまたこのイベントの味であると思う。
このような展開の選択肢を作る辺りにFF6のシナリオの妙を感じ取れてしまう、全体を見ると結構唐突なシナリオや口調の変化多いのに…!
で、話を戻すと再プレイにより自分は再びその選択肢の岐路に立たされたわけだが、選んだ結末は…
済まねえシド。

昔は圧倒的に生かしておく派だったのだが、改めてイベントを見るとドラマチックさと整合性を求めてしまっていた。
このドラマチックを求めるためにドライな選択肢を選ぶ、この矛盾のような選択。
この矛盾知りながらこの選択をしてしまうのはあの時から大人になったからなのか。改めてプレイすると狙ったのかは分からないが、その時の自分の物語と言うものに対しての価値観を試されるリトマス試験紙のようなイベントでFF6の物語としての深さを感じたような気がする。
この比較の経験ばかりは当時少年だった自分がプレイし、そして大人になった今プレイすることでしか得られない経験だ。
ゲームに限らずドラマでもアニメでも映画でも読書でもいい。あの時に名作に…物語に触れたからこそ時を経て改めて触れた時に物語はあの時と変わらないまま待っているのに、自分が人生で重ねた経験や物語への価値観の変化によりまるで別の物のような経験をすることが出来るようになる。
その変化した自分の価値観はこのシドの生死においてこの選択を決断した。
物語において必要な痛みや悲劇って
あると思うんだ

